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門脇稔
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鈴木律子
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高橋雄介
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パートナーインタビュー1回目のお相手は、中央大学水泳部監督、高橋雄介氏です。高橋氏は科学的トレーニングによって、中央大学水泳部を強豪チームへと導かれた、日本水泳コーチのパイオニア的存在です。今回は、高橋氏がこれまで歩まれてきた軌跡や、その中でお感じになる「食」「栄養」の重要性、今後のビジョンなどについてお話を伺いました。
高橋さんは、今から18年前、1986年にアメリカにコーチ留学をされています。このきっかけとい
うのはどういうものだったのでしょうか?
「中央大学を卒業後、トヨタ自動車に入社し、海外技術協力部というところで2年間働いていたん
ですが、 その職場では、英語が頻繁に飛び交っていたりして。周りの人たちと比べると、 「自分
の実力のなさ」というものを痛感せざるを得ない状況だったんです。 僕は元々すごく負けず嫌い
だから、『どういう分野で自分が戦うべきなのか?』ということを真剣に考えた。 そう考えると、
これまで自分がやってきたことといえば、やはり水泳しかなくて。 当時、水泳で一番といったら、
やはりアメリカでした。だからアメリカに行くことを決めたんです。 ただ正直に言えば、そのと
きも『水泳かスポーツを教える立場で一番になりたいなぁ』と漠然と思っていたにすぎなかったん
ですけどね。 いずれにせよ、水泳の分野ではこれまでずっと一番だった自分が、社会に出て、ある
意味の挫折を経験せざるを得なかった。 そこからアメリカ行きの決断をすることになりました。
今思えば、早いうちに挫折を経験できてよかったのでしょうね。」
アメリカに行くことを決断されてからは、比較的スムーズに話は進んだのでしょうか?
「ダンギャンブリルという、今でも超一流のコーチがいらっしゃるのですが。僕がアメリカに行きた
いという想いを抱いている中で、当時彼が日本にいらっしゃった際に、お会いする機会があったんで
す。で、いろいろと自分の想いをお話しすると、『それだったらうちにくればいいよ』というお言葉
をいただいて。で、わらにもすがる思いで、アラバマ大学に入学したんです。でも実際に行ってみる
と『お前、ホントに来たのか?』という感じでしたね。(笑)アメリカに行ってわかったことなので
すが、当時のアメリカでは、コーチングはすでにプロフェッショナルの仕事として確立されていまし
た。ヘッドコーチのもとに、アシスタントコーチがいて、完全に持ち場が決まっていた。だから基本
的には僕の居場所なんてないわけです。しかも、アラバマに行った当時は英語なんて全く話せないわ
けですよ。だから、『どのような努力をすれば自分が認められるのか?』ということを真剣に考え、
実行しましたね。水泳のビート板を運ぶことからはじめ、それまでもっていたプライドは全部捨てて
、ゼロに戻ってとにかくがむしゃらでした。そうするうちに周りにも認められ始めて、チーム内での
コーチとしてのポジションも確立されていました。気づくと5年経っていましたけど。(笑)」
5年間のアメリカ留学の後、日本に帰国されるわけですが。アメリカでコーチを続けようとは思わ
れなかった?
「やはり一番のきっかけになったのは、『今のままじゃ、日本は世界に追いつけないよ』というコーチの言葉でした。その一言から、『自分がアメリカで学んだ科学的トレーニングを日本に広めて、日本の選手を世界と同じ土俵に立たせてみたい』と思い、日本に帰りました。今でも感服するのが、彼らの器の大きさ、とでも言うべきものですね。日本から来たよそ者に、自分たちのノウハウを教えることを惜しまない。しかも、挙句の果てには、また日本に戻って、そのノウハウを広めることを薦めてくれる。将来ライバルとなるかもしれないのに。ダンギャンブリルとジョンティースキナー、2人とも今でもアメリカを代表する優秀なコーチですが、変わらず交流してくださっていますね。素晴らしい方たちです。」
日本に帰ってきて、アメリカでのノウハウを活用した科学的トレーニングを導入し、定着される際にはご苦労されたのでは?
「帰国後、母校である中央大学水泳部でコーチを始めました。当時中央大学には、吉村監督がいらっしゃって、『選手の乳酸値データを計測する』トレーニングはとられていました。これだけでも当時、日本の水泳界の中では進んでいた方でした。が、『そのデータをどのように分析し、どのように現場で活用するのか』ということについてはやはり何も行なわれていない状況でした。つまり、チーム自体が完全には機能していなかったんですね。そういう状況からチームとしての体制をつくり、考え方を醸成しなければならなかったので、チームをガンガン引っ張っていきました。また、僕が中央大学に戻った当時、僕は大学を卒業して以来、中央大学のプールから7年間も離れていました。だから誰も『高橋雄介』という僕自身を、当然ながら知らないわけです。そういう中で当初は色々な声がありましたが、結果を出すこと−つまり選手のベストタイムを更新すること−ができれば、自分のトレーニングが正しいことを証明することができると信じていました。実際に初年度で70〜80%の選手が自己ベストタイムを更新し、表彰台に上ることも出来ました。これは、当時の中央大学水泳部にはセンセーショナルなこととして受け止められたようです。」
そういう高橋さんの活動が徐々に実を結び始めて、中央大学水泳部は今年、前人未到のインカレ11連覇
を目指す強豪チームへと変化を遂げていくわけですが。その中で「食」「栄養」を本格的にとりいれよ
うと思ったきっかけというのは?
「8年ほど前になりますが、1996年のアトランタオリンピックで、日本水泳チームは惨敗しました。それ
をみて僕は、2000年のシドニーオリンピックにむけて「プロジェクト2000」というものを立ち上げ、男
子は決勝進出、女子はメダル獲得を目標としました。世界を見ると、各分野におけるプロフェッショナ
ルの協力が必要だと痛感していました。そう思っている中で、98年に石川さんと知り合いました。でも、
正直、当初は栄養のプロフェッショナルとしてどこまで出来るのか実力を見極めようとしていましたね。
石川さんのことも知らなかったし、僕がそれまで知っていた『栄養のプロフェッショナル』は、栄養に
ついての理論についてはよくご存知だけれども、それを現場で実践することが出来なかったんです。そ
もそも現場に下りてくる人がいなかった。けれど、石川さんの場合は、頻繁にプールサイドにも顔を出
していた。僕はまず、プールサイドに来たことに対する勇気を感じましたね。また、そういう風にして
いると選手もちょっとした体の変化などについても相談するようになりました。そうした『生きたコミ
ュニケーション』を通じて、現場の空気感を感じとり、そこから栄養についてのアドバイスをなされて
いましたね。石川さんは栄養の理論も出来るし、その理論をトレーニングのプログラムにもキチンと反
映させることができるんです。僕らはモノをつくっているわけではなく、人をつくっているわけです。」
「プロジェクト2000」では、各分野のプロフェッショナルが集まり、見事シドニーオリンピックで目標を達成されました。次のアテネに向けてどのような目標をお持ちなのでしょうか?
「実は、シドニーオリンピックでは確かに目標は達成できました。しかし、シドニーから帰ってきて、すぐに次のような趣旨のコメントを出したんです。『今回は女子メドレーチームがメダルを獲得するなど、良い結果だったが、やはり4年後または8年後の大会では、男子でメダルを獲れる選手を育てたい』と。競泳は世界的にも競技人口が多く、特に男子自由形は『本物じゃないと勝てない』といわれています。体格の差もまだまだある。だからこそ、日本人の特性を活かし男子の世界で勝てる選手を育てたいと強く思っています。今回はその目標に確実に近づいているということを実感できていますね。」
中央大学水泳部にしても、高橋監督ご自身にしても、常に高い目標を立てられ続けているという印象を受けますが、そういう目標を達成する上で、選手や監督からご覧になると石川さんはどのような存在なのでしょうか?
「選手たちからすると『いなくてはならない人』でしょうね。いろんな話を聞いてもらった上での栄養アドバイスをいただいているようです。監督の立場からすると、理論を中央大学水泳部という現場に落としこめる能力、ホテルのシェフなど他の分野の専門家と交渉できる能力などを『中央大学にとって信頼できる能力』ということになりますね。いずれにしてもお互いがお互いの分野でプロフェッショナルとしていい補完関係を持てていると思います。」
今年は、アテネオリンピックの代表選考をかねた4月の日本選手権、8月のアテネオリンピック、そして11連覇がかかったインカレがありますが、最後に豊富を聞かせてください。
「いつも選手に話しているのが、’Never say never (不可能な事など決して無い)’ということです。選手、そして僕自身も、実績を積み重ねていくたびに、それが当然という風にみなされてきます。だからいつも今より高いハードルを飛び越すことが求められる。確かに要求が高くなっていくというのはきついですが、きついから楽しいんです。苦しいから前に進もうと頑張れるのです。まずは自分がやりたいと思うことをやってみよう。やれると信じてみよう。そこからしか何も始まらないと思っています。だから’Never say never’。お話したように、自分のこれまでの人生を振り返ってみると、『自分に正直に生きる』ということを貫いてきたような気がします。その時その時の自分の気持ちを大切に、やりたいことをやってきました。その過程では、ほとんどが挫折や失敗だらけです。今振り返ると、そういう全ての経験が“今”に役立っていると思います。これからも『あの失敗が良かった』『あの挫折が良かった』と思えるように、前に向かって、上に向かってチャレンジしていきたいですね。」
インタビューを終えて
アテネオリンピック選考会を兼ねた4月の日本選手権。その大会に向けて行なわれた2週間に及ぶグアムでの強化合宿からの帰国翌日に高橋氏にお話を伺いました。力強いまなざしが、こんがりとした褐色の肌にいっそう映えていたのが印象的で、水泳コーチ界のパイオニアらしく、常に上を目指して挑戦する姿勢を言葉の端々に感じることが出来ました。グアム帰り後の石川氏。「全身ちゃんと日焼け止めを塗っていたのに・・・」ということでしたが、やはり屋外での練習をみっちりとこなしたのか、こんがりと焼けていました。」
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